黒柳徹子の若い頃が美人!トットちゃんの由来は?家族構成も紹介!

90歳を超えた現在も現役で活躍し続ける黒柳徹子さん。ユーモアのある語り口と独自のファッションセンスが印象的ですよね。しかし、黒柳徹子さんの若い頃は「日本初のテレビ女優」として、美貌と知性を兼ね備えた女性ということで有名だったのです。

今回はそんな黒柳徹子さんの若い頃や「トットちゃん」の由来、家族構成について調査しました。

黒柳徹子の若い頃が美人!

1953年にNHK放送劇団に入団した黒柳徹子さん。日本初のテレビ女優として多くの番組に出演しました。

黒柳徹子さんの若い頃の写真を見ると、はっきりとした顔立ちに上品な微笑み、背筋の通った立ち姿が印象的。モダンなドレス姿や和服での登場もあり「和と洋の美」を併せ持った存在として若い女性たちの憧れでした。

特に20代の頃の彼女は「目鼻立ちの整った美人」「気品と可愛らしさを兼ね備えた女優」として、新聞・雑誌でもたびたび取り上げられています。

出典元:スターの軌跡を辿る-The Journey of a Star

また、他の女優とは一線を画す「知的な印象」も持ち合わせていました。

「トットちゃん」の由来は?

「トットちゃん」は、黒柳徹子さんの幼少期のニックネームです。本名の「徹子(てつこ)」をうまく発音できず「トット」と呼んだのが始まり。家族や友人の間で自然と定着し、後に出版した自伝的小説「窓ぎわのトットちゃん」でも使われました。

https://twitter.com/rio20001202/status/1964443092750389681

この本は1981年に刊行されると同時に大ヒット。日本国内では800万部を超える売上を記録し、世界35カ国以上で翻訳されました。特に教育者や子育て中の親たちから高く評価され、いまもなお「自由な教育のバイブル」として読み継がれています。

「窓ぎわのトットちゃん」の内容

「窓ぎわのトットちゃん」は、黒柳徹子さんの幼少期の実体験をもとにした自伝的な物語です。2024年にはアニメ映画化もされました。

出典元:東宝MOVIEチャンネル

普通の小学校を退学になった主人公のトットちゃん。その後、規律ではなく「子供自身の好奇心」を大切にする自由な校風の「トモエ学園」で個性を大切にされながら、伸び伸びと育ちます。

黒柳さんの実体験に基づくこの物語。校長先生やクラスメートとの心温まる交流を通じて、多くの人に「教育とは何か」や「子供たちの可能性」ついて考えさせられる感動的な作品です。

黒柳徹子の家族構成

黒柳さんは、1933年8月生まれの東京出身。両親・2人の弟・妹の6人家族の長女として、音楽一家の中で生まれ育ちました。

出典元:徹子の気まぐれTV

ここでは黒柳徹子さんの家族について1人ずつご紹介します。

①父:黒柳守綱(もりつな)

父の黒柳守綱さんは、NHK交響楽団のコンサートマスターを長く務めた名ヴァイオリニスト。家ではクラシック音楽が流れ、黒柳徹子さんは幼い頃から音楽の中で育ったといいます。

とても厳格な職人気質の父で、家の中で音を外した演奏が聞こえるとすぐに指摘するような耳の持ち主だったそう。黒柳徹子さんはそんな父を尊敬し「音楽は言葉よりも真実を伝える力がある」と学んだのも父の影響だといいます。

また、父がツアーで海外を回り、世界の物語や文化の違いを話してくれたことが黒柳徹子さんの国際的な視野に繋がったと語っています。

②母:黒柳朝(ちょう)

母の黒柳朝さんは声楽家で、のちにエッセイストとして活動。黒柳徹子さんの人格形成に最も大きな影響を与えた母は「この子の個性が伸びる場所を探さないと」と、自由な教育方針のトモエ学園に転校させました。

この決断が徹子さんの未来を大きく変え「窓ぎわのトットちゃん」という名作誕生のきっかけにもなったのです。

また母はとても厳しくも愛情深い人で、徹子さんがテレビで人気者になってからも「調子に乗ってはいけない」とたびたび諭していたといいます。

「チョッちゃん」として朝ドラでドラマ化、アニメ映画化もされました。

出典元:朝ドラマニア・大河ドラマニア

③弟(長男):黒柳明兒(めいじ)

1番下の妹が生まれた直後、1944年に幼くして肺血症で亡くなったそうです。この経験は姉・黒柳徹子さんの心に深く残り、のちにユニセフ親善大使として世界の子どもたちの支援活動を続ける原動力にもなったと語っています。

特に、貧困や戦争で苦しむ子どもたちに対しては「自分の弟を助けられなかった分、今できることをしたい」という思いが強いようです。

④弟(次男):黒柳紀明(のりあき)

父と同じNHK交響楽団に所属していたこともあるヴァイオリニスト。海外留学経験もあり、ヴィオラも演奏されるそうです。

⑤妹(次女):黒柳眞理(まり)

幼い頃からバレエに励み、プロバレリーナとして活躍するも、19歳の時に怪我で退団。その後は美容師免許を取得し、美容師として働いていたそうです。

黒柳徹子は38歳でNYへ留学!

当時すでに日本で大スターだった黒柳徹子さんですが、38歳の時に更なる高みを目指してニューヨークへ単身留学。アメリカで有名な演劇スクール「リー・ストラスバーグ演劇研究所」で、メソッド演技など本格的な舞台芸術を学びました。

「すでに成功していたからこそ、現状に甘んじたくなかった」と語り、語学の壁や異国の文化に戸惑いながらも、初心者として演技を学び直したといいます。もちろん英語はペラペラです。

出典元:mochantv英会話

この経験が、のちのトーク番組「徹子の部屋」や舞台活動、社会的発信力の土台となっていったことは間違いないでしょう。

ユニセフ親善大使としての顔

黒柳徹子さんは、1984年に日本初のユニセフ親善大使に就任。以来約40年にわたり、世界中の貧困地域や紛争地を訪れ、子供たちの教育・医療支援の必要性を日本国内に伝えてきました。

出典元:UNICEF東京事務所

ルワンダ、シリア、スーダンなどでの支援活動を経て、テレビでは笑顔を届け、現地では涙する黒柳徹子さん。一貫して「人の命の尊さ」に寄り添ってきたその姿勢は、多くの人々の共感を呼びました。

2021年には文化功労者に選ばれ、国民的レジェンドとしての地位を確立しています。

まとめ

ここまで、黒柳徹子さんの若い頃や家族についてご紹介しました。

黒柳徹子さんは、日本初のテレビ女優にして世界的なベストセラー作家であり、社会貢献や「徹子の部屋」など時代を超えて活躍しています。

家族は黒柳徹子さんの原点であり、人生に深く影響を与えました。そんな黒柳徹子さんは唯一無二の存在として、今日まで日本中から愛され続けているのです。